礼文島と「民主主義」 -あるいは「当たり前」を崩すということ-
こんにちは。元・礼文町地域おこし協力隊のはやとです(この記事の内容はあくまで一私人の見解です。現在の協力隊や礼文町役場とはなんの関係もありません)。
今年(2018年)の3月までの2年間、地域おこし協力隊として礼文島で活動していました。そして4月からは、名古屋大学環境学研究科社会学講座の大学院生になりました。
そろそろ、タコやボタンエビなどの島の海産物や、たちかまなどの珍味が恋しくなって来ました。当然ですが、都会の海鮮居酒屋などではその欲求を満たすことができないので、残念です。
礼文島唯一の幹線道路である船泊(島の北側)から香深(島の南側)へ続く道路は、通勤で使っていたためおそらく700回くらいは通っていたのですが、島を去った後は悲しいことにその記憶も徐々に薄れていきます。
都会に帰って、元どおりの「当たり前」の世界に戻ると、様々なものが見えてきます。
「当たり前」の上に成り立った社会や学問の枠組みも、「礼文島の視点」を加えると、また違ったように見えるのです。
逆に、礼文島で「当たり前」とされていたことも、都会で教育を受けた自分の観点から見ると面白く見えることが多々ありました。
この記事では、雑多なそれらのことを、忘れないうちに書いていきたいと思います。
日本に民主主義はあるのか
いきなりタイトルが飛んだように見えますが、これにはわけがあります。私の見立てでは、礼文島の人々の意識の深層構造は、いわゆる「日本人」のそれをもっとも色濃く反映しているように見えました。日本人の意識を地層に見立てれば、比較的古い部分を直に観察できるといったところでしょうか。
大学や美術館などの「教育」「文化」、あるいは裁判所や税務署などの「制度」がない島にとって、「学校教育」や「選挙」、あるいは「法律」などは、すべて中央から伝わったものです(その「中央」の人々の「文化」も、もとをたどればヨーロッパのある地域から来たものです)。小学校、中学校、高校の先生という、学校文化を持った人たちがほとんど全員、島民ではなくて外の世界から派遣されて来た人たちである、というのが象徴的にその事実を表していると思います。
行政は、少なくとも手続き上、あるいは書類の上では民主主義の原則に立っています。しかしそれらは島の人々の生活からすれば、遠い遠い、ものすごく遠いものです。
学校では「民主主義=善。選挙に行こう」と習います。日本は民主主義国家ということになっています。
その「民主主義」が成立するためには、「市民」が存在することが前提となりますが、おそらく島に「市民」の精神構造を持つ人はほとんどいないと思います。
そのため、手続きの上では民主主義でも、結局はパターナリズム(恩顧=庇護主義)の上に成り立っているのがほとんどだと思います。
礼文島の人がやたら世話好きであるのも、このパターナリズムの延長だと考えてよいと思います。
ところで、チャーチルやアクトン卿の言葉を待つまでもなく、学校などでは、民主主義は良いことで、それ以外は悪いことだとされています。
しかし、本当に、パターナリズムは悪いことで、民主主義は良いことなのでしょうか?
島で生活していると、いかに学校で習うことが島の生活と関係ないのかがよくわかります。
島に住んでいると、学校の成績評価が、いかに中央の基準に従った「実態のない」ものなのかがよくわかります。
実際、漁師の風を読む「知識」は、論文という形で生産された大学の「知識」とそんなに違いがあるのでしょうか。
遠藤周作が『沈黙』の中で、日本にキリスト教は馴染まない、本来のキリスト教が日本流に変形されている、というようなことをいっていましたが、それは日本という国の本質的な部分なのかもしれません。
上記のことは、もしかしたら、文化人類学あたりですでに語り尽くされているのかもしれません。
私自身の価値観で言えば、市民や民主主義の概念は私の好むところではあるのですが、上記のような構造に自覚的になれば、もう少し世の中をクリアーに見ることができるのでしょうか。
私の目には、あらゆるものが疑問に見えます。そして、その疑問に吸い寄せられるように、きっと私は東京から礼文島に飛び立ったのだと思います。
その根底には、今まで「当たり前」だとされていた価値観、「正しいこと」と「正しくないこと」の間に並べられた大小関係を転倒させたいという密かな野望があったと思います。
島の経験、あるいは視点を現在の生活や研究にどう落とし込めばよいのか、非常に苦しいところではありますが、これは真っ当な苦しみであると信じて、やるべきことをやっていきたいと思います。